河合隼雄『大人になることのむずかしさ』

先週「未来のマナビフェス」で中原淳先生が講演のなかで推薦された『大人になることのむずかしさ』を買い求め、じっくり読む。

臨床現場や神話からの考察により、人間性について、とりわけ日本人の深層心理をえぐりだす河合隼雄ワールドに引き込まれてしまう。

社会的な意味での大人といっても、たとえ、職業をもち自分で自分の生計を営んでいるとしても、それは社会的に大人といえるかどうかという点では問題があるかもしれない。つまり、われわれの社会を維持し発展せしめてゆくにおいて、どれだけ貢献しているのか、という点から見れば、まだまだ不十分ということもあろう。

その点、社会が複雑になると共に、大人として社会に負う義務がかえって不明瞭になってきて、別になんら社会のことなど考えなくとも、一応は社会人として適用できるのが近代人の特徴であるといえる。むしろ、未開社会の方が個々人のその社会に対して果たすべき義務は明確なものであるといえる。

未開社会においてはイニシエーションという通過儀式があり、子どもから大人になる明確な区分けがあった。しかし、イニシエーション制度を廃止した現代社会では大人になることが個々人にまかされることになり、困難が生じている。子どもと大人の境界はあいまいで、大人を明確に定義することさえ難しい状態になった。

大人になるためには、何らかのことを断念しなくてはならぬときがある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが、人間という存在は、自分の限界を知る必要があるときがある。これは真に残念なことだが致し方ない。

単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている、ということであろう。自分としては、ここが限界だからここまでで断念しようとか、二つのことは両立させ難いのでこちらをとろうとか、どうしても成就し難い恋を断念するとか、もちろんそのときは苦しみや悲しみに包まれるだけのときもあろう。しかし、それによって大人になってゆく人は、そこに深い自己肯定感が生じてくることを感じるであろう。

この点については、青年を援助、指導する人がよく知っていなければならないことである。

人間はすべてのことができるはずがなく、何かができない、ここが限界だと解るときがある。そのときに、そのことのみによって人を評価するのではなく、勉強ができないとか、どうも人とうまく話せないとか、いろいろの欠点があろうとも、そんなことは人間本来のもつ尊厳性にかかわりないことを、指導する立場にある人が、はっきりと腹の底に据えて知っていることが大切である。

そのような人との人間関係を通じて、青年は自分の無能力を認識しつつも、自己嫌悪に陥ることなく、立派に大人になってゆけるのである。

深く考察するけれども、出した結論で決めつけたりしない。われわれは本当に分かったといえるのか?!と問い直す先生の姿勢に、見習うべきところは大きい。

今まで述べてきたことを、この際思い出していただくなら、自立と依存、日本と西洋、男性と女性、孤独と連帯、などなど多くの対極性に目を向けてきたことに気づかれるであろう。そのときに、どちらか一方を善とすることは可能であり、そのときは単純明快な人生観や理論ができあがるであろう。そして、その理論に頼って「大人になる」ことは可能であり、そのような大人もたくさんいることは事実である。

現在の青年たちが大人になることの難しさを感じるのは、そのような単層的な人生観や、イデオロギーに絶対的に頼るようなことができなくなっているからである。古来から絶対視されてきたものが、絶対ではないことを、彼らはあまりにも多く知りすぎたのである。

このような限りない相対化のなかで、青年が「しらけ」を感じずに生きてゆくためには、対極性のなかに身を投げ出して、そこに生きることを学ばねばならないし、われわれ大人がまずそれをやり抜いて行かねばならないのである。

人生のなかに存在する多くの対極に対して、安易に善悪の判断を下すことなく、そのなかに敢えて身を起き、その結果に責任を負うことを決意するとき、その人は大人になっているといっていいだろう。それらの対極はハンマーと鉄床のようにわれわれを鍛え、その苦しみのなかから個性というものをたたき出してくれるのである。

最後の文章をピックしたのは、ちょうど江川紹子さんの寄稿を読んでウームと唸ったばかりのためでした。
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Yahoo!ニュース「【オウム死刑執行から考える1】「村上春樹はヌルイか?(江川紹子)」

以下、記事より引用。

私が、声高に死刑廃止を唱える論に身構えてしまうのは、「死刑=悪、死刑廃止=善」という二元論に立って、しばしばこのような単純なモノの見方がなされるからだ。

彼らにとって、「死刑=悪、死刑廃止=善」という価値観は、揺らぐことのない絶対的ものであって、妥協の余地はない。その点で、信仰に近い。「善」なる価値を布教し、「悪」の側にいる者に”改宗”させ、「悪」をほろぼすのみである。

こうした宗教的二元論に立てば、死刑がなくなって欲しいと願う者が、死刑を求める遺族の傍らに立って、その思いを汲み取り、迷うことは、「死刑制度賛成派=悪」を利する行為にしか感じられないのかもしれない。

しかし、死刑を巡って、様々な現実を見、いろいろな立場の人のことを思いながら迷うことは、”罪”だろうか。「ヌルイ」のだろうか。

死刑については、いろんな思いや考え方があると思う。死刑はできればない方がよいと思いつつ、被害者遺族の心情を考え、決めきれない。死刑制度はやむなしとしながらも、現行の制度には問題があると考える。あるいは、個々の事件や人についての死刑判断には賛成できなかったりする。村上さんのように、死刑制度には反対だが、現実の事件を知れば知るほど迷う人もいるのではないか。その時々の情報で、廃止と存置の間で気持ちが揺れ動く人も少なくないだろう。

そういう課題を、善悪二元論的発想で考え、語ってよいものではないと思う。現実は、そんなにシンプルなものではない。また、自分の主張に沿う論拠を並べ立てて勝負するディベート風議論にもなじまない。様々な視点、種々の論点、いろいろなケースを見て、迷いながら、考えながら、時に語り合いながら、じわじわと自分の考えの方向性をみつけていく。そういうものではないか。

現実を多角的に知るからこそ生じる迷いや揺れは、むしろ大切なものだと私は思う。それが「ヌルイ」と言うなら、ぬるくて結構ではないか。熱く煮えたぎっているより、ギンギンに冷えているより、ほどよくぬるい方が体にも心にも、じっくりと染み渡り、1人ひとりが自分自身で考えるための滋養になる。

それを否定し、妥協の余地のない二元論を打ち出されると、現行制度の問題をいかに改善していくか、という議論ができにくい、という問題もある。善が悪を滅ぼす革命型ではなく、漸進的な改善という道を模索することも大事だろう。

 

 

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