松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

日本列島の各地で甚大な被害をもたらした記録的な大雨のニュースをみながら、「うしろめたさ」という言葉が湧いてきて、去年読んだ本を読み返しました。

松村圭一郎著『うしろめたさの人類学』は、エチオピアのフィールドワークを皮切りに、国家や経済を肌感覚で捉え直す内容です。

以下、引用。

東日本大震災や熊本地震のあと、多くの人がなにかをしなければ、という思いに駆り立てられたと思う。そこには、過酷な状況を強いられた人びとがいながら、自分たちが平穏な生活を送れていることへの申し訳なさ、「うしろめたさ」のような気持ちがあったはずだ。

私のなかに「うしろめたさ」は、たしかにあった。

中国地方が大水害に遭っている最中、その上空を超える形で五島列島に旅行で向かいました。帰りの便が欠航になって離島に足止めになり、自分もある意味被害者になったことで「うしろめたさ」が若干軽減された気持ちになりました。それで誰か救われたわけではないのですが。

上の文章は、その前に述べられる問いに続く形でした。

よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか。
努力や能力が報われる一方で、努力や能力が足りなくても穏やかな生活が送れる。一部の人だけが特権的な生活を独占することなく、一部の人だけが不当な境遇を強いられることもない。誰もが好きなこと、やりたいことができる。でも、みんなが少しずつ嫌なこと、負担になることも分け合っている。
つまり、ひとことで言えば、「公平=フェア」な場なのだと思う。

公平な世界の実現は理想ではある。けれども、格差が広がり分断がますます酷くなる社会で、どうやってたどり着くことができるのだろう。

本書では、倫理性に答えを求めています。以下、少し長い引用。

公平さを実現するための手段にはさまざまな限界がある。では、どうすべきなのか。

公平さというバランスを取り戻すために、ぼくらは現実についての認識をずらしたり、物や財を動かしたりすることで対応している。モノを動かす動かし方には市場での交換、社会のなかでの贈与、そして国家による再配分があった。
それぞれに一長一短があって、万能な方法があるわけではない。それらを組み合わせながら公平さを目指すしかないし、現にそうやっている。
具体的なケースで考えてみよう。電車でお年寄りが立っていて、若者が座っていることがある。はたして電車内での「公平さ」はどう確保できるか。
(中略)
結局、国や市場の仕組みには限界がある。相手の様子やその場の状況に応じて、自発的に席を譲り合うという個人のコミュニケーション・レベルでの対処がどうしても必要になる。目をつぶって気がつかないふりをする人もいるし、正直者が損をするかもしれない。でも、若者が優先席に座って目の前にお年寄りが立って入れば、少なくとも周囲の人々に「図々しいよな」とか、「恥ずかしいな」といった「共感」のスイッチが入る。電車が揺れるたびにそのお年寄りがふらふらでもしたら、気づかないふりをしていた人のあいだにも「うしろめたさ」が生じるだろう。
(中略)
まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人の格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は、公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこに、ある種の倫理性が宿る。

「うしろめたさの倫理」は、日本社会を変革する起動力になりうるだろうか。

倫理、もしくはモラルと言い換えてもいいと思いますが、それは相手の心の問題なので、他人がコントロールできるものではない。相手のモラルに期待すると思い通りにならないことが多くて、イライラする羽目に陥ると感じてしまう。

地域で活動していると、フリーライダーなどモラルハザードな問題に遭遇することがあります。そのとき、倫理性をもとに非難をしても、そもそも相手に声が届かないので効果が薄い。不平不満を口にするより、わたしができることをやり続けるのがベターと思えてしまう。

文体は爽やかな本なのですが、もやもやした読後感が残りました。

ただ、半年前に本書を読んだおかげで、自分の中に「うしろめたさ」がインストールされたのと、今回の大雨被害で起動したことが確認できました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA