逗子市自治基本条例検討ワークショップ第2回「合意形成とルール」をなんとか乗り切る

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逗子市で始まった自治基本条例検討ワークショップの第2回が実施されました。8月最後の土曜、貴重な休日に沢山の参加者が、市役所の会場に集まりました。

第一回は先月開催され、総勢100名のワールドカフェを行いました(→前回レポートはこちら)。アンケートでは「参加してよかった」の回答が96%。行政と市民が意見交換する場としては相当なハイスコアで、有り難かったです。

ワークショップの様子は、担当の企画課が毎回レポートにしてまとめています。A4両面で、簡潔かつ要点を押さえた内容です。逗子市のホームページに掲載されてあり、ご興味のある方は是非ご一覧を。

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これから条例づくりに向けた具体的検討に入るわけですが、第二回は「合意形成とルール」をテーマに掲げ、各論に入る前に合意形成のあり方を検討しました。様々な立場や年代の方が集まり、多様な考えが出る場で、意見を一つの方向性にまとめる作業は困難です。その難しさを体感する仕掛けを用意し、合意形成する上で大切なことを考える場を作りました。

具体的には、企業研修でよく行う「コンセンサスゲーム<砂漠で遭難したらどうするか>」をしたのですが、これが上手くハマるか心配でした。本筋と離れるゲームを始めた途端に「なんでこんなことをせにゃならんのだ!」とお叱りの声が出るイメージが湧いて、ヒヤヒヤしながらの本番になりました。

すると、私の不安をよそに奇跡的な展開が生まれ、見事にハマりました。参加者のなかで仕切ってくれる方が現れてくれたおかげです。偶々の展開ながら見事なファシリテーションを務めてくださったHさん、ありがとうございます。

コンセンサスゲームでは、参加者の方それぞれに感じたことがあったと思います。私自身が得た気づきは下記です。

    • 各自が持論を述べ始めると意見が一向にまとまらず、最初に大きな方向性を決める必要がある。
    • 多数決が民主的ではあるが、少数派になった側から異論が出ると仕切り直しになり、我慢強く進める必要がある。
    • 少数意見の真意を深く知ることで新たな賛同者が生まれ、流れが変わる。
    • 知識や経験のある人の主張が強いと(=声が大きいと)、知識の浅い人は発言しなくなる。
    • 発言するのは60代以降男性ばかり。こうした場で若い世代や女性は意見表明ができない。
    • 何より仕切ってくれる方がきちんといて、発言を尊重しながら進める姿勢が重要、等々。

準備段階で私の詰めが甘かったことや、ゲーム後の総括が十分でなかった反省はあるのですが、無事にやりとげてホッとしました。第二回のワークショップレポートが出来ましたら、またご報告できればと思います。

なお、今回のワークショップ準備で、これらの本を読みこみました。・・今回、私の気分が重かったことを察してくだされば幸いです。

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平田オリザさん著『わかりあえないことから』で述べられていることを、まさに体現したいところでした。少し長いですが、一節を引用します。

協調性から社交性へ

人びとはバラバラなままで生きていく。価値観は多様化する。ライフスタイルは様々になる。それは悪いことではないだろう。日本人はこれからどんどんと、バラバラになっていく。

しかし、人間は社会的な生き物なので、バラバラなだけでは生きていけない。私たちはどうしても社会生活を営んでいくうえで、地域社会で決めていかなくてはならないことがある。

いままでは、少なくとも1980年代までは、遠くで(霞が関で)、誰かが(官僚が)決めてくれていたことに、何となく従っていれば、いろいろ小さな不都合があったとしても、だいたい、みんなが幸せになれる社会だった。しかし、いまは、自分たちで自分たちの地域のことについて判断をし、責任を持たなければならない。その判断を誤ると、夕張市のように自治体さえも潰れる時代が来てしまったのだ。

ただ、この一点が変わったために、日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば「心を一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。

しかし、もう日本人はバラバラなのだ。

さらに、日本のこの狭い国土に住むのは、決して日本文化を前提にした人びとだけではない。

だから、この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。

私はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。

(中略)

しかしこの社会性という概念は、これまでの日本社会では「上辺だけのつきあい」「表面上の交際」といったマイナスのイメージがつきまとった。私たちは、「心からわかりあう関係を作りなさい」「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と教え育てられてきた。

しかしもう日本人は心からわかりあえないのだ・・・と言ってしまうと身もふたもないので、たとえば高校生たちには、私は次のように伝えることにしている。

「心からわかりあえないんだよ、すぐには」
「心からわかりあえないんだよ、初めからは」

この点が、いま日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質だろうと私は考えている。

心からわかりあえることを前提とし、最終目標としてコミュニケーションというものを考えるのか、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできるかもしれない」と考えるのか。

「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いていないだろうか。

(後略)

同じ地域に住む人たち同士が、「わかりあえないこと」を前提にしつつ、対話を通して互いに納得のいくコミュニケーションの場をつくる。これから、試行錯誤しながら、胃もたれしながら、なんとか作りあげたいところです。

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