行き詰まったときは『自由論 自然と人間のゆらぎの中で』の深い文章で深呼吸

なんやかやと用事に追われ、息が詰まりそうな状態を「行き詰まり」といいます。行き詰まったときは、深い読書で深呼吸。

内山節先生『自由論』と向きあいました。深すぎる文章が続出でした。

自由とは不思議な言葉である。誰もが重要性を否定しないのに、その内容は漠としている。

歴史をふり返ると、自由が大きな役割を演じたのは、自由そのものに対してではなく、不自由や自由の侵害を批判するときであったことがわかる。言論、結社の自由に対する侵害、思想、信条の自由への侵害、表現の自由の侵害、民族自決の自由の侵害、・・・、自由とは、不自由との闘いのなかで力を発揮する言葉であった。

自由は他者との調和を求める。とすれば、どのような自由の制約は許され、あるいは許されないのであろうか。そこに設けられる基準とは何なのであろうか。ここにおいて、自由をめぐる議論は幾度となくゆきづまってきたのである。

もっとも、非欧米人である私たちには、自由という言葉は、欧米人以上にわかりにくい言葉であったに違いない。なぜならヨーロッパの近代革命とともに掲げられた自由という言葉には、西欧的な近代精神が色濃く付着しているのに、私たちはその精神を必ずしも共有していないからである。

自由を守ることは、自由を維持しうる秩序を守ることであると考えるかぎり、その秩序に同意しない人々への排斥が、自由の名のもとにすすめられていく。そして、それを求める多くの人々がいる。

同じようなことが、世界各地で起こっていることだろう。とすると、いま自由は、明るい未来を示す言葉だった時代を終えて、不愉快さといらだちを伴いながら使われる言葉へと、変わってきているのであろうか。

現代社会は私たちに職業選択の自由は与えても、就労の保障は与えなかったのだということがわかってくる。失業する自由はあっても、働く自由は保障されていないのである。

労働者は、労働の自由を得るには、雇用が保障され、労働者の権利が認められ、賃金など労働条件面での要求の満たされることが必要だと考える。つまりそれは、賃金で働く者にとっての、あるいは労働力を商品として売る者の自由なのである。

ところが「ブルジョア」にとっての労働の自由はそれとは異なる。ここでは自己実現という言葉が大きな役割を演じる。自分の人生のあかしとして、自分の労働で実現させる目標をたて、その実現のためにあくなき挑戦をつづける。それがうまくいくことのなかに、「ブルジョア」にとっての労働の自由は生まれる。

今日、思想の世界では、一面では日本でもアメリカでも、ヨーロッパでも、同じことが問題にされている。それは、1970年代以降人々の間に拡がった自己肯定の風潮を、どのように考えていくかということであった。1960年代には、日本でも欧米でも、何者でもなくなっていく自分たちが問題にされ、そのような自分を否定=克服しようとする衝動が、日、米、欧の人々のなかにあった。それは各国の青年の運動を高揚させたけれど、その底にあった精神は、このままの自分ではいけないという気持ちである。自由は、この精神と結びついて考えられていた。

ところが、今日では、このままの自分がいかに障害なく過ごしていけるかが、自由のテーマになったようにさえみえる。すなわち、現状の自己を肯定する意識が、自由の出発点になったのである。日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、である。

そのとき自由は弱々しいものになっていた。そしてこの自由の衰弱が、人間の抵抗力を弱めている現実に、思想は恐怖するようになった。

ボランティアとか、「助け合う」、「協同的な」といった言葉が、魅力的な響きを伴って、人々の耳に聴こえはじめた。私たちは、自然をもふくむ他者との間に、よりよい関係が築かなければ、個人の自由も十分なものにはならないと感じはじめたのである。

これは精神の大変革である。なぜならこの動きのなかでは、自由の主体が、個人から関係へと変わりつつあるからである。

たとえば私たちは、はじめに障害者と健常者のよい関係がつくられなければ、障害者、健常者双方の自由も確立できないと考えるようになった。たとえば私たちは、農民と消費者とのよりよい関係が築かなければ、農民の自由も、作物をめぐる消費者の自由も保障されないと思うようになった。

まず個人を確立し、そのうえに理想の秩序をつくろうとするのではなく、理想的な関係を築くことによって、自由な個人でもあろうと私たちは考えたのである。

この社会は、人間に自由をもたらしただろうか。むしろ人間の自由なまなざし、豊かなまなざしとてもいうべき、何か本質的なものを失わせてしまったのではないだろうか。そう感じたとき、私たちは、他者を手段にするのではなく他者と共生することを、そしてそのために自然をふくむ他者の生活を守り、他者の生命活動に助けられながら暮らす、そんな新しい自由の感覚を身につけなければならないと、気づいたのである。

近代的な自由は、個人を主体にしている。ところが、はじめに述べたように、その個人は頼りなく弱い。すなわち自由は個人を主体にしているにもかかわらず、個人を主体にするかぎり、自由はあやういのである。とすると、現代自由論にも止められている大きなテーマのひとつは、このことの解決ではなかろうか。

と、目をひいた文章を入力しつづけて、ただいま第3章にたどり着きました。全体で15章まであり、なかなか終わりが見えないので、ここで引用を終えたいと思います。

「自由」を ’Liberty(=勝ちとるべきもの)’で考えるのか、
’Freedom(=最初からある自由)’で捉えるのか。

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