山折哲雄・上野千鶴子『おひとりさまvs.ひとりの哲学』

宗教学者の山折哲雄先生と、社会学者の上野千鶴子先生のガチンコ対談。

上野先生の切れ味が滅法鋭い。

上野 「家族はあてにしていませんよ」(子どもたちが駆けつけることを期待しているくせに)「妻には捨てられるかも」(そんなことが絶対起きないと根拠無く信じているくせに)「最期は野垂れ死にですよ」(野垂れ死にがどんなものか知らないくせに)というのは、決まって男たちである。

男供の憧れや幻想をばっさり切り捨てる上野先生。

上野 男の人と喋ると、鴨長明『方丈記』とか、ソローの『森の生活』が、みんなすごく好きなんですよねえ。ひとりで世捨て人のように人里離れたところで、世間に背を向けて暮らしたいっていう憧れです。実際にはやらないんだけどね。

で、「最期はじゃあどうするんですか」って訊いたら、「野垂れ死にしたい」っておっしゃるんでる。わたしはそれを「野垂れ死にの思想」って呼んでいますが、思想だけで実践した人はみたことがありません。

野垂れ死にの思想、男どもはたしかに持っているかも。。耳が痛い。

上野 女でも同じことを言えば、やっぱり「いい気なもんだね」と感じると思います。その「いい気なもんだね」っていうのは、実際には自分はそうなる可能性がない、あるいは、そうならないことに対して根拠のない安心感をもっているにもかかわらず、口先だけで言っていると感じるからです。(中略)

それで、『「ひとり」の哲学』に思想として憧れを持ち、何かというと「野垂れ死に」を口にするような人たちが、むしろ、家族依存を少しも疑わず、自分ひとりになることに、想像力も備えもない。

むしろ女性のほうがもっとリアルに考えて、自分がひとり死んでいくということに、さまざまな手立てや準備を考えようとしています。そういう意味では女のほうがひとりで死んでいくことへの覚悟が男性よりも大きいと思います。

ちなみに、「思想としての・・」は「口先だけの・・」という意味でした。

舌鋒鋭い上野先生のツッコミに、山折先生がたじたじとなる場面がたびたび。ただそこには尊敬の念があり、窮地に追い込まれた山折先生の発言から一段と深い対話が生まれていると感じました。

山折先生の宗教に関する深い洞察が興味深いところでした。

山折 日本の無神論者は、ヨーロッパの確信的無神論者とは性格を異にすると。カミュとかサルトルとかボーヴォワールのような無神論者とは違う。それは向こうは、ただ神を信じないだけじゃない。積極的に否定したり殺したりする。

上野 そのぐらい神さまは強大だから、対応しないといけない。

山折 そういう無神論者と比べると、わが国のような多神教な風土のなかの無神論者ってのは、それはいい加減な無神論者だなと思ったんです。

あとがきにあった山折先生の述懐が、何よりも本書の面白さを表していました。

今回の対談は期待にたがわず、とても面白かった。月並みに、とても刺激に富んでいた、とつい言いたくなるのですが、じつはいつも私のほうが不意をつかれ、ときには脅かされ、それで動悸バクバク、といった場面がつぎからつぎへと出てくる。応接にいとまのないありさまでした。

その対談における臨場感を何とか文字の形で表現しようと苦心惨憺したのですが、どうもうまくいきません。それでいたし方なく、感嘆詞や落胆詞、また擬声語もどきなどを使って、急場をしのぐことにしました。

あっ・・・驚いた、うかつだったぁ!
ああ・・・そうだよなぁ〜
えっ・・・虚をつかれ、声をのむ!
ええっ・・・度肝をぬかれた!
うーん・・・納得いかないが、参った!
いやぁ・・・降参したぁ!
む・・・ほとんど言葉を失う!
そうかあ・・・にが笑いでごまかす!
あっあっあっ・・・しまったぁ!

例文として、次のように使用されています。

山折 それはやっぱりこだわりじゃないかな。

上野 はい、そうです。だって妄想はアイデンティティの一部ですから。

山折 うーん、だけど、死ぬときぐらいはアイデンティは捨ててもいいよ(笑)。

上野 だったら、そのまますっきり物質に還ってもいいじゃないですか。

山折 あっ、あっ、そうなるか。

次は山折先生の本を読むことにします。

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