見城徹『読書という荒野』で強調される「差別構造」の創造性

『読書という荒野』は、幻冬舎・見城社長の熱い生き方と、実名であげられる著名作家との濃密な交流に、ひきづり込まれる読書時間になりました。

ベストセラーの話題の書で、沢山の方が感想や書評を述べています。ですので、ここでは普通の感想は止めて、本書にたびたび出る「差別」に特化して引用します。
*マーカーラインは私が付けたものです。

まず日本の神話、伝承。

日本の神話や伝承なら、『竹取物語』には尊いものと卑しいものの差別の構造が描かれている。竹から生まれた玉のようなお姫様が、最後は「私はあなたと一緒にいられる身分ではない」と言い、月へと戻ってしまう。ここにはどの社会でも見られる差別の構造が横たわっている。

また『遠野物語』には「神隠し」の話が登場するが、そこには異質なものに対する恐怖や排除、親しい人と離別することに対する悲しみが描かれている
(中略)
僕はこれらの伝承を読みながら、時代を超えても変わらない人間の本質について考えを深めていった。

吉本隆明。

吉本は労働組合運動の経験から、収奪する者とされる者の間に存在する差別構造について、誰よりも深い問題意識を持っていた。そして、収奪される者の側に立ち、言論のみならず、時には暴力を伴う苛烈な運動に身を投じる。

しかし吉本が救おうとした「収奪される者」は、人の善い、平凡な人々で、吉本の戦いを理解しようとしない。自分はその人たちのために、割に合わない役割を引き受け、命がけで戦っている。しかしその人たち自身が、自分を理解しようとせず、薄ら笑いを浮かべて「あの人はバカだね」と嘲る。その意味で、吉本隆明は二重の孤独にさらされていた。

五木寛之。

五木寛之は社会に横たわる差別構造を鮮やかに描き出す作家だ。ストーリーの土台として、大国と小国、男と女、メジャーとマイナー、都市と辺境、常民と流民といった対比を据え、持つものと持たざる者の鮮烈な光と影を浮き彫りにしている。

差別こそが、感動の根源であることをこれほど理解している作家はいない。
(中略)
この構造は同じく初期の短編小説『GIブルース』や『海を見ていたジョニー』にも通じている。僕がこれらの本を夢中で読んだのは高校時代から大学時代にかけてだが、どの社会にも必ず存在する差別の構造、区別の構造を無意識に学んだ。そして、差別の構造とはここまで感動をもたらすのかと、おぼろげながら思ったものだ。

すべての人々が一枚構造であることなどあり得ない。社会があれば必ず、階層があり、差別する者と差別される者が存在する。そうした現実を理解した上で、自分に何ができるかを真剣に考えた。
(中略)
差別の構造を引くことで、小説は鮮やかで、ドラマチックな感動をもたらすものになる。それはすなわち、主流派が支配する社会やメディアが隠蔽したい構造を、想像力の産物としてリアルに描き出しているからにほかならない。

大江健三郎。

差別は文学において、豊穣な表現をもたらすエンジンとなりうる。差別表現を受けている者、時には囚われの身になったり、窮乏状態に追い込まれたりしている者には、生きるよすがとなるのは想像力しかない。唯一の武器が想像力なのだ。現に、能や歌舞伎、華道や茶道をはじめとする日本の伝統芸能は、差別された階層から生まれてきた。

大江健三郎はこの点をしっかり書き切っている。

中上健次。

「きらめく才能」と書いて、最初に思い出されるのは中上健次だ。
(中略)
中上自身が被差別部落出身で、肉体労働を経たのちに作家になった経緯がある。
(中略)
中上の小説はすべて、差別構造がベースになっている。この点では五木寛之に通じる部分がある。たとえば『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の三部作では、主人公は被差別部落出身者として社会から虐げられ、家庭も両親も性的規範意識が強く、多くの異父きょうだいや異母きょうだいがいる環境で育った。彼は自暴自棄になり、異母妹と近親姦をすることになるが、行為の最中で潮が満ちていくような快感を覚える。どうしようもない苦痛のなかで、虐げられた人間が到達する快感。

差別構造はここまで人の心を揺さぶるものかと、改めて驚いた。

村上龍。

村上龍に書いてもらったのが『悲しき熱帯』である。

本作は一つの実験だった。どんな社会も差別構造を持っているが、その差別はどこから来るかといえば、僕の考えでは「自然=時間=季節」から来る。季節があるから行事が生まれ、役割が決まり、それが差別を作り、物語を生むという構造だ。

しかし、熱帯という地域には季節がない。フラットな日常が延々と続くだけだ。だから熱帯には本質的に物語は生まれない。それを逆手に取り、村上龍は本来物語が生まれないはずの熱帯を舞台に、短編小説軍を書いていった。

つかこうへい。

『熱海殺人事件』にしても、『蒲田行進曲』にしても、『郵便屋さんちょっと』『ストリッパー物語』『寝取られ宗介』『初級革命講座 飛龍伝』『広島に原爆を落とす日』などすべての作品に通底しているのは、差別の構造である。つかこうへいはその差別を、これでもか、これでもか、というように偽悪的に暴き立てる

『熱海殺人事件』では、集団就職で上京してきた、毎日油まみれになって働く中卒の工員が、熱海の海岸で中卒の女工を腰ひもで絞め殺すという事件を、刑事たちがなんとか自分たちが捜査するにふさわしい派手な事件に成長させようとする物語である。『蒲田行進曲』は、スターの俳優が、売れない大部屋俳優に自分が手を出した女優を引き受けさせる物語である。

そこに共通するのは、強者と弱者、持つ者と持たざる者、サディズムとマゾヒズムのドラマトゥルギーである。敗者を徹底的にいたぶり、勝者の専横ぶりを誇張しながら両者の哀切に満ちた複雑な関係性を暴き出し、生きるということの絶望と過酷を、痛々しいまでの愛情で展開させる。敗者は徹底的に敗者の虚構を演じ、勝者は徹底的に勝者の虚構を演じ切る。
(中略)
容疑者はこうあらねばならない、刑事はこうあらねばならない、スターはこうあらねばならない、階段落ち専門の大部屋俳優はこうあらねばならない。その「あらねばならない姿」に追いつけたり、追いつけなかったりする滑稽さが、異様な感動を伴って観客を魅了する。言葉の持つパワーが、これほど全開になる光景は、ほかの演劇では僕にとってぜっていに経験できないものだった。

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