ウルリヒ・ベック『危険社会 新しい近代への道』を大晦日に読む。ポストモダンの再勉強。

一昨日に、今年読んだ本のふりかえりをしました。(→ブログ「読んだ本でふりかえる2018年」

そのなかにも挙げていた『危険社会』を、大晦日にじっくり読み返しました。

もとは大学院の「家族社会学」の授業で課題図書となった、ベック夫妻『愛は遠く離れて』をより理解するために手に取った本でした。

こちらの本は、ロマンチックラブによる結婚が崩れている現実や、移民問題によって家族がグローバル化して「家族のかたち」が変容している様を論じた内容でした。

『危険社会』を又読み直そうと思ったきっかけは、冬休みに入ってから読んだ見田宗介先生の最新刊『現代社会はどこに向かうか』で激賞されていたことです。

二一世紀に入って以降の、新しい現代社会の全体理論として、世界的に知られている唯一の理論はウルリッヒ・ベックによる「リスク社会理論」である。それは現代社会の特質を、「リスク社会化」として捉えるものである。(中略)

原子力発電と遺伝子組み換え等々のもたらすリスクこそが、現代社会の問題の中心であるととらえる「リスク社会論」が、今世紀の最も説得力のある「現代社会論」であるという事実自体が、現代社会の状況をよく物語っている。

『危険社会』が発売されたのはチェルノブイリの原発事故が起きた1986年で、社会科学の書物としては珍しいほど世界的に広く読まれたとのこと。2011年の福島の事故で、さらに説得力を増したと言われています。

本書の内容自体は、事故や災害に限らず、労働問題や核家族など幅広いテーマを扱っています。いわば文明論で、主題となるのはポストモダン(近代以降)。

ポストモダンについては、私が大学生だった25年前、浅田彰などの哲学書を流行りでいくつか読んだことがありましたが難解で、実感がもてなくてスルーしていました。

今年になって、大学院の授業を受けたおかげで、現代社会を理解するに重要な概念を再勉強できる機会は貴重であったと思います。今回は実感をもって読み込むことができます。

ただ、ベックの鍵概念である「自己内省的な近代化」「再帰的近代」など、私がまだ咀嚼できておらず、ここで上手く文章化することができません。ほか、バウマンやギデンズなどの関連書籍を読み込んだうえで記述に再トライしたいと思います。

『危険社会』で「個人化」について述べられた箇所は深く考えさせられました。
以下、266-267頁より引用します。

人生を形づくっていく上で、原則的に個々人の決定の余地がないような場面は減少し、個々人の決定に左右される人生の部分、自分で作っていく人生の部分は増えている。(中略)

職業教育や職業や移住地や結婚相手や子供の数等についての決定を、他の些末な決定とともに、行うことが可能なだけでなく、行わなくてはならなくもなった。「決定」という言葉があまりにもおおげさな言葉であるとしても(なぜなら、「決定」という意識もなく、代替案もないので)、個々人は自分がしたわけではない決定の帰結を「背負いこまなくては」ならない。(中略)

個人化した社会において、個々人は、自分自身の人生行路(ライフコース)や能力や立場の認識やパートナーシップ等の関連において、自分自身をその行為の中心として、設計事務所としてとらえることを学ばなくてはならない(そうしないと永久に損をするという罰があたえられる)。(中略)

求められているのは、自我をその中心にもち、自我に行為の機会をあたえ、このようにして、自分の人生行路(ライフコース)に関して突然あらわれてきた形成および決定の可能性を有意味に分解して処理できるような、積極的な日常行為モデルである。このことが意味するのは、自分自身が生き残るため、表面的には知的に装いつつ、自我と社会の関係をいわば逆にし、個人的な人生行路(ライフコース)形成という目的のために個人と社会の関係を操作可能なものとして扱っているような自我中心的世界像が転換されなくてはならないということである。

引用が長くなりすぎたのですが・・

かつてなら自分がどう生きるのかといった人生の諸問題は、自分で選択しなくとも身分や階級で定められていた部分が多く、人生行路に悩まなくてよかった。しかしながら、現代社会では職業選択や結婚、子どもを産む/産まない等、自分で決定しなければならない。そのためにも自分自身で人生設計を行い、社会の変化を自分のなかに取り込んでいくような生き方を志向する必要がある。

ある意味、自己啓発書でよく言われるような内容ですし、私も大学のゲスト講義で似たような話しをします。又、いつからかよく言われるようになった「自己責任」の言葉に通じるものがあります。

でも私の中では、それでいいのかと抗いたい気持ちもある。自分で自分の人生を選ぶことが必要というのは分かるけれど、「自己責任」ばかり問われる社会は窮屈に感じます。又、個人のリスク回避に必死で、自分のことしか考えない社会に向かう方向でよいものかと。

人の生き方として、別な選択ができる社会がありえないものか。いろいろ考えてみたい気持ちになりました。

それから、私が専門分野である男女平等についても本書で言及されていました。
以下、222頁から引用です。

男女関係における個人レベルでの責任の割り当てと失望は、「世紀の戦い」を引き起こす。その原因は、制度的構造が古いままで、性のステレオタイプからの解放が男性と女性の私的対立という形で試みられるからである。しかも核家族という枠組みのなかで試みられるからである。これは、社会構造が以前と同じであるにもかかわらず、社会変動を家庭のなかで成し遂げるという試みに等しい。そんなことをしても、不平等が交換されるだけである。

女性の家事・育児からの解放は、女性が拒否したこの「近代的な封建的存在」への男性の後退によって強行されるべきだという主張があるが、これは、歴史的には、貴族を農民の農奴にするに等しい試みである。しかし女性と同様、男性も「家庭へ戻れ」という呼びかけに従う者は、少ないであろう(このことを女性はよく知っておくべきだ)。この試みは、あまり効果的なものではない。

次のような洞察が重要である。すなわち、男女平等の実現は、男性と女性が不平等な状態におかれていることを前提としている制度構造のもとではなされえない。

難解な用語が並ぶため最初はパッと読んで理解できなかったのですが、こちらも意味が深いです。

男女平等は、制度が男女不平等になっている限りは実現することができない。その視点は、おっしゃるとおりです。

又、ある学会でジェンダー学者が「男性は特権から降りるべき」と主張をしているのを聞いたことがあるのですが、それは効果的ではないとベックは述べます。なぜなら、特権にいる人は自ら進んでおりないから。実際そのとおりなかも。

でも正直、納得していないところがあります。男女不平等の制度をなくすには法律の改正が必要で、相当な時間がかかります。それまで出来ることはあるのではないか。又、男性の家庭回帰は「後退」ではなく螺旋的発展と捉えたら面白い見方ができるのではないか。

まだ考えがモヤモヤとしており、こちらもまた改めて記述にトライしたいと思います。

大学院で社会学の理論を勉強をし直すなかで、現代の夫婦関係や家族のあり方について考察がすでになされていることを知りました。私自身この十年ほど父親育児支援の視点から家族ついて沢山の本を読んだり、いろいろと考えてきたつもりでしたが、不勉強だったと痛感するばかりです。

上野千鶴子先生の『家父長制と資本制』など、もっと早く読むべきだったと思う専門書にいくつも出会います。

これから研究し整理していくなかで、「社会学で読み解くイマドキ夫婦のパートナーシップ」といった一般書を出せないものだろうか。そんな夢想をする大晦日でした。

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