『タテ社会の人間関係』を読み直す〜いまどきの若者もタテ原理か?

本屋さんで平積みになっていた『タテ社会の人間関係』。刊行から50年たち、今も売れ続けている凄い本。

大学生のときに読んだ記憶あり、懐かしさもあって購入。電車の席譲りエピソード(P47)など、25年以上前に読んだときに衝撃を受け、今も電車で同じような場面に遭遇すると、私の中でうずきをおぼえる。

「ウチの者以外は人間にあらず」の感

「ウチ」「ヨソ」の意識が強く、この感覚が尖鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。知らない人だったら、つきとばして席を獲得したその同じ人が、親しい知人(特に職場で自分より上の)に対しては、自分がどんなに疲れていても席を譲るといった滑稽な姿がみられるのである。

実際、日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人々に対して実に冷たい態度をとる。相手が自分たちより劣勢であると思われる場合には、特にそれが優越感に似たものとなり「ヨソ者」に対する非礼が大っぴらになるのが常である。

50年前に描かれた日本の社会構造が、今なお変わらないと感じる。本書に記述された(P178)こんな場面にしょっちゅう出会う。

何らかの意味において「タテ」につながる人々のなかで、反論はこのように抑圧されるから、大っぴらな反論というものは、つねにそうした関係にない人々(他の集団に属する人々)、あるいは反抗者(たとえば、上司に反発を感じて発言をする部下や、教師に何らかの不満を抱く学生など)から出される。この場合も、反論とは称しても、実は論理の上での反論というよりは感情攻撃の形をとりやすい点で、やはり論理性の欠如がみられる。この典型的な例は、国会における、与党に対する野党の反論である。

このように相反する、または異なる主張・考えをもつ者が話し合ったり、議論をしたりすると、自分たちの主張を叫ぶばかりで、両者のあいだに論理的な発展がないのが普通である。

議論が平行線になって発展がなく、互いに自分の主張を繰り返すだけに陥ることがいかに多いことか。

一方、本書を読み進めながら、いまどきの若者、たとえば中学高校大学生の人間関係は様相が変化しているのではなかろうか?と思えてきた。お互いの感情に随分な配慮をしつつSNSでやりとりする彼ら彼女たちをみていると、タテ社会ではない違う行動原理が働いていると感じる。

イマドキの若者はタテ社会の原理で生きているのか?

そうした仮説を検証している論文があれば読んでみたい。

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