オープン大学院「社会デザインがやってきた」で疑問解消

午前は市役所で3時間ワークショップのファシリテーター。頭クラクラ、体クタクタになりながら、午後は湘南新宿ラインで池袋へ。

オープン大学院「社会デザインがやってきた」に参加。ホールは満員御礼でした。

逗子で四度のワークショップでお世話になり、敬服する亀井善太郎先生のミニ講義にギリギリ間に合う。

プログラムの後半、修士論文報告はじっくり聴けました。

4月から大学院に通い始めた、と本ブログでたびたび書いています。立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科を通うことにしたのは、いろいろご縁を感じたからでした。CSRの可能性に関する論文の報告をされた藤井さんもイクボス研修でご縁あり。

休憩中、見知った顔をお見かけしたので声をかけると、私が新卒入社した富士ゼロックス総合教育研究所の山口さん。尊敬する大先輩もセカンドステージで立教に通い始めたとのこと。やはりご縁があると感じた次第です。

今回もそうでしたが、大学院で学び始めてから刺激が大きく、視野が一気に広がる感あります。毎回の授業を楽しみにしています。

まだ履修生の身分で、本格的に入院しているわけではありません。今年度から通ってもよかったのですが、次女の保育園お迎えがあと1年あり、天中殺が明ける来年からにしようと考えたのでした。

そうしたなかで、私の中で少し迷いがありました。それは「この選択は自分の目的にかなっているのか?」という問いです。

隠すことでもないので記すと、私の目的は、次のキャリアで大学教員になること。公務員業を終えた次のステップでイメージしています。そして、大学教員の公募へエントリーする要件に博士号があげられているのがほとんどで、最低でも修士は必須。修士号を得るために大学院へ行かねば、という考えが出発点でした。

でも、資格をとるために2年間をお勉強で費やすのもしんどい。途中で通うのが面倒になったり、他にもっとしたいことが出てくるかも、と心配しました。(・・21世紀に通い始めて1ヶ月で、その心配は払拭されました)

オープン大学院に参加し、別な懸念が出ました。報告のあった修士論文がいずれも、社会課題に対してアカデミックに追究するというより、個人の実務経験を総括し、自身のキャリアを再構築する内容でした。「ここは研究者を養成する機関ではないかも」といった印象を個人的にもちました。

アカデミックな研究者になりたいわけではないのですが、仮に教員になったら学生に論文指導する場面が出てくるはずで、ここが弱いと次のステップで苦労しそう。

オープン大学院でフリーディスカッションの時間があり、手をあげて質問しました。そうしたら、亀井先生と中村陽一先生の回答が、ズバリ私の得たかった内容でした。一を尋ねると十の答えが返ってきてスゴイ!・・その内容は、書き出すと長くなるので省略します。

帰りの電車で、中村先生が講義されたマックス・ウェーバーを読みました。

授業ではプロ倫(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)が語られました。そこで、大学生以来のプロ倫再読を試みたのですが、変わらぬ難解さに断念。よい解説書がないかしらと書店を巡ったら、三浦展さんの現代訳『職業としての学問』を発見。

赤線を引きまくりながら読むと、まさに私の問題意識と合致する文章がありました。

私たち教員にとって何より難しい課題は、教員の話を聞く力はあるが、学問的な訓練を受けていない学生に、教員が学問的な問題を理解できるようにしてあげることであり、さらに、これがまさに教員にとって決定的に重要ですが、学生たちを自分の頭で考えられる人間に高めていくことだ、ということです。

(中略)

研究と教育の能力が両方を兼ね備えた人がいたとしても、それはまったく偶然なのです。

三浦展さんのマックスウェーバー、わかりやすいです。とくに次の超訳がすごい。

今、まさに若者のあいだに非常に人気が広がっているのが、二つの偶像に使えることなんです。その偶像へのカルト的崇拝ぶりを私たちは街角でも雑誌の中でもいたるところで見つけることができます。

二つの偶像とは、「自分らしさ」と「やりがい」です。

夜、逗子につくと長女のピアノ発表会へ直行。ピアノの演奏、跳躍していました。

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