寝込んだときには内田樹先生のご本を

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土日に熱を出しました。久しぶりに用事がとくになかった週末で、身体が「休んでいいよ」と反応してくれたのでしょう。こんなときは、直感で身体によく効く内田樹先生の著書を読みます。ゴホンゴホンと言いながら本を読む。

逗子の図書館で借りた『街場の共同体論』の第一講「父親の没落と母親の呪縛」と第二講「拡大家族論」が衝撃的な記述でした。

以下に部分抜粋しますが、ぜひ原典をお買い求めのうえで当たってくだされば。

家族の中の「権力関係」は大きく変わりました。それは父親の権威が劇的に低下したということです。父親の存在感が驚くほど希薄になった。

昔の父親は子供からみるとさっぱり気持ちが通じない人だった。黙っているし、自分の気持ちを子供に丁寧に説明するというようなこともしない。ただ、あれをしろ、これをするなと命令するだけ。父がどういう論理に従って、あれこれの指示を下すのか、子供にはわからないかった。たぶん子供には理解の及ばない「深い考え」があって、そうしているのだろうと子供たちは信じていました。でも、今は違います。今も父親はそこにいるのだけど、その人が何を考えているのか、何を感じているのか、妻も含めてもう家族の誰もが興味を持っていない。

何を考えているかわからないという点では、昔と変わらないのです。けれども、その父親の気持ちという「ブラックホール」が、かつては家族の他のメンバーにある種の「畏怖」の念を生ぜしめていたのにたいして、今では何の関心も呼び起こさない。今も昔も「何を考えているかわからない人」が家族内にいる。違うのは、今の父親は、何を考えているのかについて、家族の誰からも興味を持たれない人になったということです。

今の父親は家族から敬意を集めようと思ったら、もう個人的な実力によるしかない。外形的なしきたりは父親を支えてくれなくなったんですから。でも、男親の実力なんて、家庭内では発揮しようがありません。同僚との協調性とか、わがままなクライアントをなだめる調停能力とか、英語でタフな交渉ができるとか、複雑なアルゴリズムが組めるとか、世の中に出れば尊敬を集めそうな能力も、家の中では何の役にも立ちません。だから、父親は個人の実力を証明したくても、その術がない。

特に母と娘からは、父親はほぼ完全に仲間はずれにされています。これは構造的にそうなっているのです。

家父長制が解体したことで、家庭内における母親の発言権と決定力が相対的に高まることになりました。

「圧倒的な支配力を持つ父親と子供はどう向き合うか、どう対決するか、どうやってその支配から逃れるか」という問題についてなら、人類は(文学をはじめとして)膨大な経験知を蓄積してきているのですが、「圧倒的な支配力を持つ母親と子供はどう向き合えばいいのか」については、人類はまだ十分な経験値を持っていないということです。

かつての父権制家族では、「子供の欲望を知っている」母親には、子供の運命を決定する権利がなく、「子供の欲望を知らない」父親が、子供の人生の決定権を持っていました。でも、今は違う。

母親は子供の欲望を熟知している。子供の弱さも、脆さも、身勝手さも、せこさも、卑しさも、全部知っている。子供の身の程知らずの自己評価も、うぬぼれも、不安も、全部知っている。少なくとも知っているつもりでいる。その母親が、子供の進路選択において決定権を持っているのです。

母親が子供に対して下す指示は(それが進学であっても、就職であっても、結婚であっても)、わが子についての適切な能力評価・適性評価に基づいてなされているという話になっている。これは近代家族制度が発足してからはじめての事態です。「親は子供を適切に評価しており、それに基づいて子供の生き方を決定している」という物語が社会的合意を得たことなんか、過去に一度もなかったんです。

「僕はお母さんが思っているような人間じゃないよ」という泣訴は、「私はあなた以上にあなたのことを知っている」と自信をもって断言する母親によって一蹴されます。「あなたが『自分がほんとうにしたいこと』だと思っているのは、どこかで仕込んできたり、他人から吹き込まれたりした妄想に過ぎない。私は『あなたがほんとうにすべきこと(でも、あなた自身はそれにまだ気づいていない)』を知っている」と母は言います。子供自身の「おのれについての知」より、母の「子供についての知」のほうが正確であり、かつ客観的であると、母たちはきっぱり断言します。

子供たちはこれにどうしても反論することができません。だって、母の言い分はかなりの程度までその通りだからです。

この母親による子供の支配は、ボディブローのようにじわじわと効いてきます。それが日本社会に蔓延するある種の閉塞感を作り出しているということを、指摘する人はあまりいません。僕だって、そんなことを言ったら、世の母親たちをまるごと敵に回すようなものですから、うかつなことは言いたくないんですけれど、それでも一応言わせて頂きます。

母親の子供評の基本文型は、「所詮、あなったは自分で思っているほどの器の人間じゃないだから、高望みしちゃダメよ」というものです。「あなたは才能豊かで、私の尺度では測りきれないほどのスケールの人間なので、あなたがやりたいことをやるのが、あなたにとっても世界にとってもベストの選択だと思います」と子供を励ます母親というものを、僕は一度も見たことがありません。一度も。

うちの子には人に抜きん出た取り柄がないと思っているからこそ、鞭打つように勉強させたり、お稽古ごとさせたりするんです。子供の中に、親の予測を超えるようなスケールの才能が潜在していると思っていたら、それが豊かに開花するまで放っておきますよ。親にだってどんな才能なんだかまだわからないんですから。子供にほんとうに才能があると思ったら、子供をじっと観察するだけで、何かを急いでさせるなんてことはしません。

よく聴いてくださいね。英語だの水泳だのピアノだのを習わせる親は、自分の子供には人に抜きん出た才能がないということを前提にしているんです。だから、「誰でもやっていること」をさせる。自分の子供が「誰でもできることができない」という状態になることを想像すると不安になる。この不安は、母親にとっては想像を絶してリアルなんです。自分の子供だけが「誰でもできること」ができない例外的な劣等者ではないかという不安は、母親に深く突き刺さるのです。

「私の子供は弱い」というのは、すべての母親の子供に対する基本的な評価です。同年齢の集団の中でも際立って弱いのではないか、何かあったときに群れから遅れ、取り残されるのではないかという不安を、母親はつねに持っています。持っているのが自然なのです。生物学的にはそうじゃないと困るんです。ですから、母親の育児戦略は、「弱者デフォルト」なものになります。「群れと共にあれ」です。

「群れと共にあれ」、これが母親の育児戦略です。

父親の育児戦略はそれとは違います。父親は無根拠に、自分の子供は「どこかしら人に抜きん出たところがある」と思っています。なぜかは知らないけれど、際立った才能がどこかの分野にあるにちがいないと思っている。なぜか知らないけれど、際立った才能がどこかの分野にあるに違いないと思っている。なんでか知らないけど、とにかくそうなんです。

子供の学校の成績が悪いと、「こんなはずではない」と激怒するのは父親で、「どうせこの子のことだから、この程度だろうと思っていた」と涼しい顔をしているのは母親。そういう任務分担がありました。

そういうふうに親の育児戦略が違い、子供の洗剤可能性についての評価がずれていると、子供のほうにも「立つ瀬」があります。親の言い分、親の期待がそれぞれに違うわけですから、そこに一種の「非武装中立地帯」ができる。父と母の二つの力が干渉し合って、相殺されて、ゼロになる場所がある。そういう「息のつける隙間」で子供は成長したのです。葛藤のなかで成長したと言ってもいい。あるいは、そういう場所を子供に提供するために、両親は育児戦略をわざとずらしていたのかもしれません。

でも、今は違います。子供がそこでなら親の干渉を受けることなく息がつけるという「非武装中立地帯」はどんどん狭まっています。母親が父親との二役を一人で兼任するようになれば、もうそれさえなくなってしまいます。母親は子供が不出来であると、「こんなはずではない」と父親のように怒り、同時に母親として「どうせあなたはその程度の人間なんだ」と冷たく言い放つ。

(母として)子供の弱さ、能力の低さ、愚かさ、未熟さを子供以上に正確に見抜き、「あなたはこういう人間である」と反論できないくらいにぴしりと決めつけながら、同時に(父として)「あなたはこういう人間であってはならない」と叱りつける。子供はいわば、床に足を釘つけにされながら、「跳び上がれ」と命じられているようなことになります。これは心理的にはかなりきつい状況です。

こういう状況のことを、グレゴリー・ベイトソンは「ダブルバインド」と呼びました。命令に従えば罰せられ、命令に従わなくても罰せられる。こういう環境に長く置かれると、子供は成長することがむずかしくなる。母親と対決して、母親をきっちり論破して、堂々と胸を張って家を出て自立するということは、まずできません。できるのはせいぜい母親の呪縛から「逃げ出す」ことだけです。あとも見ずに逃げ出す。

少し前に読んだ本ですけれども『困難な結婚』も凄い本でした。

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