新居格『杉並区長日記』

大学院の授業、戦後の社会運動の解説で、新居格氏の功績について紹介があった。恥ずかしながら、私は初めて聞く名前だった。

新聞記者、文筆家を経て、戦後に杉並区初代公選区長に就任。

本書は、自由な気風をもつ文化人が区長になった苦悩を綴った日記である。

大して期待せずに読み始めると、これが望外に面白い。
人柄が伝わる文章で、平たい表現が読みやすい。

天下国家をいうまえに、わたしはまずわたしの住む町を、民主的で文化的な、楽しく住み心地のよい場所につくりあげたい。日本の民主化はまず小地域から、というのがわたしの平生からの主張なのである。

新居格が杉並区長に就いたのは1947年の終戦直後であり、70年も前の話である。

今とは時代様相は大きく異なるが、役所の官僚的な思考や首長と議員のバトルなど現代にも通じるところがあっておかしみがある。客観的にみれば喜劇だが、当人からすれば悲劇だ。

世の中の難事は、どちらかといえば瑣末なことにある。モンテーニュは『随想録』の中で、次のように書いている。
「最も些細な邪魔が最も痛いものである。小さい文字ほど目を痛み疲らすように、些細な事件ほど我らを刺戟するものである」

その言葉を援用して、わたしは考える。
民主化は小さいこと、小さいもの、小さい地域ほど、かえってむずかしいのである。

天下国家を語るより、小さい地域を動かす方が難しい。

ところで、わたしの見るところ、ボスには意識的ボスと無意識的ボスの二種類のあることが、だんだん理解されて来た。意識的ボスとは自分でもボス性のあることを自覚しているものであり、無意識的ボスとは自分にはその自覚がないが、その行為が自ずらボスになっているものである。そしてわたしの見るところでは、その無意識的ボスがほとんどであるということである。だから、「あいつはボスだ」というのをきくと、その人は憤慨するのを常とする。
(中略)
世間では一連のボスを駆逐すれば、ボスなき清浄地帯がありうると考えるのは、大凡短見であって、要は、民衆の間にボス性があるかどうかである。

私もこれまで、ボスマネジメントに翻弄された経験があって難儀した。
ボスを駆逐すれば解決できるわけではないと納得。

末文に、区長を病気を理由にやめた後の感想があり、いたく共感した。
私も公務員の任期を終えたときに、同様の開放感を味わった。

自由人になったことの快い感じは、トンネルから出て来た汽車の窓から、さんさんたる太陽に照らされた緑樹を見、紺碧の海を眺めたときに等しかった。自由人に復籍したと感じる、この胸の軽さ。それが心の春でなくて何であろう。

この本を勧めるとしたら、どんな人がいいのだろう?
杉並区在住の人、もしくは、地方自治/行政に関心のある人かな。

逗子市では今年12月に市長選がある。
もし立候補したいという奇特な友人がいたら、彼もしくは彼女にプレゼントすることにしよう。

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